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【MY STORY】26歳、起業への志と始まりの日

みなさん初めまして。

株式会社リーチアス代表取締役の中村龍之介と申します。

題名の通り、中村龍之介とはどんな人物なのか、なぜ会社を会社を起こしたのかそのルーツを説明できたらと思っています。

野球少年

所属していた高校の野球部はそれなりに強く、厳しい上下関係の中で育ったため人間性を高めることができたのかなと感じています。また、下の子の面倒を見るのが好きなのもその影響が強いです。

当時の部活のルールは「後輩とご飯屋さんで会ったら後輩の分もご馳走する」でした。ルールというか代々暗黙の了解みたいなものでした。(もちろん弊社で強要はしないですし、そんなルールはないです。そこは個人に任せています。)当時は高校生で部活に一生懸命で、バイトなどはしてないので、絶対にお金なんて持ってなかったんですけどそれでもなぜかやっていました。

部活の古くからあるしきたりもそうですが、自分の中でやらないと恥ずかしいというか先輩としての威厳というか、見栄やプライドの方がが勝っていたのかもしれません。

ビジネスの世界

大学に入ってから、野球は遊び程度にバイトや交友関係にかなり時間を割いていたと思います。

当時の私は友人の誘いがきっかけで、静岡から広島、広島から栃木までヒッチハイクをしました。誘われた当時は全く乗り気ではなかったのですが、今思うととても良い経験ができたと自分でも思います。

ヒッチハイクは合計10人の方々にお世話になり最終的に目的地まで辿り着きました。乗せてくれる方の人柄や職業は実にさまざまでした。本当に自分はまだ世間を何も知らないんだと感じていました。

この辺りから、知らない人と話すことが楽しいと感じるようになっていたのかもしれません。もっと言うと知らない人から新しい情報をもらうことがおもしろいと思ってました。

そのせいか今でも世間では常識的なことも恥ずかしげもなく人にどんどん聞いたり、すぐにググったりします。知らないことを知らないままにしていても勿体無いって思うことが多いです。

また、友人たちもいろんな人がいました。当時の同級生グループは、既に何人か自分で居酒屋やキャバクラなどの事業を行っているような子たちいるグループでした。私も友人の飲食事業を手伝って事業を一から始めることを肌で実感することができました。

また、他のバイト先と違い全員が友達なのでメチャクチャに楽しかったことは今でも深く印象に残ってます。この経験から、自分も早く独立したいなという気持ちが出てきました。同い年でありながらリスクを背負っていた彼らに劣等感を感じていました。

早く同じ立ち位置になりたい、雇われの身が情けない、というようなことも少し考えていました。今考えると少し生き急いでいたのかなと思います。そして何より私も彼らを尊敬していた分、自分も同じように尊敬されたいと思っていました。

そんな思いから「自分もいつか好きな人と働く環境を作りたい。経営者になりたい。」という感情が芽生えてきました。

また、経営的にも学んだことも多く、料理の質や原価の調整、SNSでの露出を強化することでお客様からの「ありがとう」の声に繋がっていきました。

それが自分自身の仕事へのモチベーションになっていると気づくことができました。

単なるお金稼ぎではなく「感謝されてお金をもらう」これはビジネスの一つの真理のようなものだと私自身、理解納得腹落ちしていました。

自分の夢がわかった日

そして友人のもとで働いてしばらくしたある日、経営者に対しての憧れが決意に変わった出来事がありました。

とあるお客様から招待されて一度横浜に遊びに連れて行ってもらいました。そのお客様は、不動産業で3社ほど経営されている会社の社長さんで、その日の会食は計3件。金額でいうとサラリーマンの月収の3倍くらいのお金を目の前で使っていたただきました。当時の私では全く想像できない世界を見ることができました。

3件目でほろ酔いの中、その方は「サラリーマンは少し陳腐だ。」とおっしゃってました。私もその行動からなる言葉が胸に刺さりました。一生雇われているままではここまで絶対にできないと思ったからです。

もっと稼げるようになりたい、人に必要とされたい、当時ぼんやり起業したいと思っていた私が必ず経営者になるのだと思った印象深い言葉でした。その言葉が私を起業家にさせる人生の中で大きなパワーワードとなりました。

ファーストキャリア

大学5年の卒業と同時に友人の居酒屋を退職した私は東京で就職活動を始めました。採用された会社は東京にあるWEBコンサルの会社でした。私は当時不動産や建設会社の営業職も同時に受けておりましたが、どの会社も将来独立の意思を伝えると最終面接で落とされるのがオチでした。しかし、この会社は違いました。

最終面接で独立の話をすると「うちの会社は独立推奨なので問題ないよ」と言ってもらいました。今振り返るとなかなか潔いの良い会社だと今でも感謝しています。

そんな東京のWEBコンサル会社に入社した私は独立のためにまずは自分が力をつけなければいけないと思い、「社会人としての結果」にこだわりました。営業職の私の「社会人としての結果」=「契約件数」です。

当時の会社自体も営業職に対しては「仕事をこなした数ではなく結果がどれだけ出たのか」という考え方だったのでとにかく結果にこだわることにしました。当時は早く仕事を覚えるために朝6時には出社して営業の準備や上司に教わったことを反芻しそこから仮説を立て、営業稼働で実践していました。

自宅の用途は入浴と寝るだけでプライベートは自分から捨てていました。土日も経営者と話を合わせるために読書や知見を広げるために関東のいろんなところへ1人で出向いたりました。

平日は毎日18時以降に上司に質問して、営業ロープレを聞いてもらい続けました。それでも成果は半年間出ませんでした。人間成果が出てこないと本来の力が出なくなります。もっと言うとあるのに出せなくなります。

それでもひたすら継続して努力を続けました。

それは自分のやっている努力量と方向性が正しいと確信していたからです。私がそこまで確信が持てた理由は当時の上司が常に「成果(ゴール)」を私に見せ続けていたからです。ゴールが見えないマラソンが辛いと感じるように、成果の見えない仕事は精神的にとても辛いです。

私の上司はどんな時代の変化にも的確に対応して、成果を出し続けていました。だから私は頑張り続けることができました。

そうこうしているうちに2年目にはありがたいことにたくさんのお客様から発注いただき、歴代最年少で昇格することができました。さらには大阪に出す新しい営業所の立ち上げにも参画させていただき、0から組織を作る様を間近で見ることもできました。

昇格してから1年半が経ったあたりでした。会社の終礼の後に新卒1年目の部下から営業について質問があったのでそれに答えていました。私はその日、床屋を予約しており時間に間に合わなくなりそうなのでと伝えるとそれならと言ってそのまま彼は床屋についてくることになりそこで質疑応答に入りました。

リーチアス始まりの日

私は片手間で髪を切ってもらいながら熱心な彼の質問に答えていました。彼は教育大出身で地頭も良く、仕事を覚えるのも早く優秀な子でした。いつかはこの会社を背負って立つような男だとその時から期待してましたし、何より人間性も好きで可愛がっていたと思います。

しかし、散髪の終盤で彼と互いのライフプランの話になり彼は「今の職場で3年間も頑張ろうとは思えない」と私に言ってきたのです。この発言は会社に対する嫌悪ではなく、よくある仕事が好きではないという理由でした。

その時本来あるべき上司の行動は悩みをきちんと聞いてあげて、将来の見えない彼にとって明確に将来を想像させて導いてあげることのはずでした。しかし、私はなぜか特段何も言い返さなかったのです。言い返せませんでした。

なぜなら当時の会社ポストに空きがなく、やりたいことがその瞬間実現出来そうにない自分と彼が重なったからだと思います。

そこで私は予定より早いタイミングでしたが兼ねてからひとつの目標であった独立を決意しました。今までの様々な経験から学んだことを活かし「日本で一番必要とされる会社」を実現するためにです。ここがリーチアスの始まりの日です。

長い文章を最後までお読みいただきありがとうございました。継続的に投稿できればと思いますので次回もお待ちいただければと思います。